水引というツール。


ことば について考えたことはありますか??


水引となんの関係があるんだよ、とお思いですよね。
まあまあまあ。

今日、ひょんなことから
なんで私たちはアクセサリーをつけるんだろうね、
という話になり、
『違和感』について語り、
ひいては
儀式という概念に辿りつきました。

創り手として、
つくることは自己表現に過ぎませんが、
使い手として、ではなぜ、ということを
視点を変えれば見え方も変わって、
いままで見えなかったようなことが見えてくることは
よくあることです。


私は
水引のむすびに出逢って
むすびかたのそれぞれに意味がある、ということに
とてもとても感激して、
ご祝儀袋や贈り物の授受以外に
ましてやそれすらも失われつつある中で、
日常でもっと身近に使えるものにならないかしら、と考えて
私自身、毎日ピアスをつける習慣があったから
とても身近なものとして
ピアスや、ネックレスを
水引のむすびをつかってつくるようになったのが
そう、5年ほど前。


贈り物を贈る、という時点で
その相手に想いを馳せて
贈るものを考える時間があって
そうしてその上で贈り物に
かけていた水引という紐の
むすびかたには様々な種類があって
尚且つそれぞれに意味があった、ということを知ったときに
日本の文化って
なんて思いやりに溢れているんだろう!
ということに感激するのと同時に
その思いやりをアートにしてしまうスマートなお洒落さに
胸の奥でなにかが地鳴りのように激しく振るえました。

その時点で水引というものに
目にはするけど形骸化してしまったような
そんな印象を持った私は、
ただただ
『すてきな文化だったんだよ!』ということを
伝えたい!という気持ちだけで走り出しました。
そう、考えるより前に先に手足が出ちゃうタイプの牡羊座。

最初はそれこそ
言い伝えられてフワッとさらった
表面的な意味をおしゃべりしながら
作品を紹介していました。
ところが
しゃべって伝えているうちに
一番聞いているのは私自身ですので、
その
『むすび』について
え?それどうして?と
疑問に感じる点が少しずつ集まり始めました。
それを独自に調べていくうち、
まるで闇に目が慣れて次々と見えてくる星と星が
星座に繋がれて
大きな夜空がみえてきちゃったように、
先人たちが
『むすび』に込めた膨大な叡知が
そこにたっぷり詰め込まれていることに気づき
大変なものを見つけてしまったような気持ちになり、
もはや沼にどっっぷりつかって
『むすび』について周辺から拾い集めた
手がかりを基に
考察を広げながら
マニアックな『ことば』の世界へと
研究を進めてきました。

しかし、不思議なことにそれには
動きと閃きが連動しているようでした。
ただ文献を読み漁って研究するのではなく
作品を創り続けることで
循環があるようで、
実際に 産すぶ ことによる動きから
疑問が 産まれ 、
その動作やかたちを基に研究をすすめ、
またそれをかたちに還元する、というような
作業でした。
『むすび』が『ことば』を内包し
『ことば』は『むすび』を理解するきっかけになっていたというわけです。

だから
私にとって 産すぶ というのは
手元と宇宙が私という肉体をつかって交信し
先人たちが、
めにみえないものをことばというものに置き換えて伝え継いだそれを、
むすびから紐解きかたちに顕し、
またその逆でもあり
そこを行き来するような
ちょっとした儀式でもあったように
いまでこそ思うわけです。


ことば というのは


コミュニケーションをとるための
ツールのひとつにすぎないわけですが
コミュニケーションとしてのツールという概念のなかでは
そのことばさえも
使う人によってそれぞれの認識のなかでの言語として
それぞれに存在しているように感じます。
共通のもののようではあるけれど
額面通りに受け取ってもあくまで受け取り側の主観であることには変わりなく
不足の部分を
ことばを交わしながら、そこで得られることば以外の
情報であったり、イメージしたり、思いやることで補いながらようやっと
会話が先に進み、想いを交わすことができる、というのは
あったり前田のクラッカーくらいの広く知られたところだと考えています。

ただ、ツールとしてのその『ことば』そのものに宿るエネルギーについて
『むすび』の端々に、
『ことば』に込められた
システムを繙く手がかりが散りばめられていました。


だからこそ
私のむすぶ作品は
作品として自己表現に過ぎませんが
そこには
私が得てきた先人たちの叡知のそれこそまだまだホンの一部ではありますが
咀嚼し、考察した上で
それを表現したいと使っていたツールが
『偶々』水引であった、ということなわけです。
つねづね『偶々なんてない』と思っているので
水引であった理由というものも存在しているのですが
それはまた別の機会に。

研究してきたそのむすびの意味から
かたちを発想することが殆どなので
作品のかたちそのものにもイチイチ意味が
実はあります。
つまり
私の水引の作品は
ことばで表現するのであれば、
『むすび』をもちいて
ことのはのエネルギーを可視化し
実用化したもの、
であるのでしょう。

そこで冒頭の
会話に戻りますが
私たちはなぜアクセサリーをつけるのか。
身に付ける、着飾る、、。
・ただなんとなく
・人目
・飾るのがすき
理由は人それぞれでしょうけれど
私は
祈り という概念でしっくりきました。
いままでだったら、なんかそーゆーの、、
と思ってしまうところもあったかもしれません。
が、5年間水引のむすびと関わって
これだけのミラクルを続発させてくると
一周回ってシンプルに『いのり』でいいと思います。

願掛け、とか、お守り、とか
そういった儀式、つまり祈り。
太古の昔から八百万の神様に感謝する、という『文化』をもつ
日本において
祈ることはとてもナチュラルで本能的な『はたらき』だと感じます。
そこに
本来的な意味での精神性が宿っていても
全くおかしくないなぁ、と感じています。

特定の誰かに
おうえん してもらえることも
とても ちから になります。
だけど最後は自分と向き合うことになる、
そのときに
他の誰でもなく、自分を信じるために
フラットに
脈々とこの細胞にも受け継がれてきた
『文化』に背中を押されたら
イケる気がしませんか。

『むすび』に込められたそれらが
私自身を大いに勇気づけてくれたから、
作品そのものは自己表現であったとしても、
少しでもフラットなものに仕上げて
他の誰かの役に立てたらいいな、という気持ちが原動力であり、
そしてなによりもっと知りたい!という好奇心に突き動かされ続けて
研究し続けてしまうのだろうと思います。

神代からここは
『言霊の幸はふ国』といわれていたと
万葉集にもかかれているそうです。

そうじゃない理由を探すより
そうかもしれない理由を探す方が私はすきです。

言祝ぎをこめて
祈りをむすび
伝えたいのです。


読んでくださったみなさまありがとうございます。
今日は
私の作品とことばについての関係性でした。
伝えたいことがまだまだたくさんあります。

いくつか仕掛けをしてあります。
引き続き、
どうぞよしなに。